平和を考える日
今日は、8月9日・・・
1945年、第二次世界大戦末期、長崎に原子爆弾が投下された日です。
投下時間の 11時2分には、サイレンが鳴り響き、しばし黙祷で、亡くなられた方のご冥福を祈りました。
民意は、平和、核廃絶が必要だと解っているはずなのに、集団となったり(いじめ)、前線から離れると、人は好戦的なります。
今こうしている時も、最前線で、戦争をさせられている人がいる・・・
やりたくも無い戦い、何のための戦いなのか・・・
「宗教間の戦い」宗教は心の拠り所のはずなのに、本来の方向性を後世の指導者が、ねじ曲げて、戦いへと誘う。
「商業戦争」大量消費を行う戦争は、大きなマーケット。
経済が疲弊すると、戦争が起こる・・・
「テロ」は、絶対に防げない、同時多発的に発生すると「テロ」は、
宣戦布告して行う戦争より、たちが悪い。
現世に達観してしまうと、自己犠牲による「自爆テロ」等が発生してしまう。
生きる意味を失わない様にする事が必要なんですが・・・難しい。
「テロ」を起こしても、悲しみが膨らむだけで、何も変わらないのに。
人類の歴史は、戦争の歴史とも言えますからね。
原始の時代から、いろんな理由で戦いが続いています。
「平和祈念像作者の言葉」
あの悪夢のような戦争、身の毛のよだつ凄絶悲惨、
肉親を人の子をかえり見るさえ堪えがたい眞情、
誰か平和を祈らずにいられよう。
茲に全世界平和運動の先駆として此平和祈念像が誕生した山の如き聖哲、
それは逞しい男性の健康美全長三十二尺餘
右手は原爆を示し、左は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る
是人種を超越した人間、時に佛時に神。
長崎始まって最大の英断と情熱、今や人類最高の希望の象徴
昭和三十年 春日 北村西望
「あの日のある少女の手記から」
のどが渇いてたまりませんでした。
水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました、
どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたまま飲みました。
自分の手で、自分の首を絞めている人類、いつまで生き続けることが出来るのやら・・・
自分が祈れるのは、とても近い近未来、自分たちの子供が、どうか平和に過ごせますように・・・
そして、自分の子供達も同じ事を願うでしょう。